街角の賑わい 油絵 10号
今年9月の発掘で斎明天皇(594~661年)の陵墓で
あることが、明らかになった牽牛子塚古墳の南東方向
20メートルの直ぐ近くから古墳が見付かり越塚御門
古墳と命名された。
斉明天皇の子供に、天智天皇と天武天皇が居るが
この間の皇女に間人皇女(はしひとのひめみこ)が居て
斉明天皇の4年後に亡くなり、斉明天皇と合奏された。
牽牛子塚古墳からは、それぞれに棺台を備えた2室に
なった石室が出土している。
天智天皇の子供に、大田皇女(おおたのひめみこ)が
居て、妹の鸕野讚良皇女と共に天武天皇の妃となった。
鸕野讚良皇女は後に皇后となり、持統天皇となる。
大田皇女は、大伯皇女と大津皇子を生むが天武天皇が
即位する前に亡くなり2人の子供は天智天皇に引取られ
育てられるが、成人して2人は悲劇的に人生を終える。
太田皇女が生きていれば、年齢差から天武天皇の皇后に
即位していたと考えられることから、特に大津皇子の
悲劇は起こらなかったと考えられ、悲劇の皇女とされる。
日本書紀の記述通り、牽牛子塚古墳の前から大田皇女の
石室が見付かったことから、2日間にわたって行なわれた
現地説明会には、6600人もの人たちが訪れている。
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