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2010年12月16日木曜日

悲劇の大田皇女の石室が出土

街角の賑わい  油絵  10号




今年9月の発掘で斎明天皇(594~661年)の陵墓で

あることが、明らかになった牽牛子塚古墳の南東方向

20メートルの直ぐ近くから古墳が見付かり越塚御門

古墳と命名された。

斉明天皇の子供に、天智天皇と天武天皇が居るが

この間の皇女に間人皇女(はしひとのひめみこ)が居て

斉明天皇の4年後に亡くなり、斉明天皇と合奏された。

牽牛子塚古墳からは、それぞれに棺台を備えた2室に

なった石室が出土している。

天智天皇の子供に、大田皇女(おおたのひめみこ)が

居て、妹の鸕野讚良皇女と共に天武天皇の妃となった。

鸕野讚良皇女は後に皇后となり、持統天皇となる。

大田皇女は、大伯皇女と大津皇子を生むが天武天皇が

即位する前に亡くなり2人の子供は天智天皇に引取られ

育てられるが、成人して2人は悲劇的に人生を終える。

太田皇女が生きていれば、年齢差から天武天皇の皇后に

即位していたと考えられることから、特に大津皇子の

悲劇は起こらなかったと考えられ、悲劇の皇女とされる。

日本書紀の記述通り、牽牛子塚古墳の前から大田皇女の

石室が見付かったことから、2日間にわたって行なわれた

現地説明会には、6600人もの人たちが訪れている。

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