解放時には、小さな貧しい村だった華西村が
農地の集団化とともに余剰村民が副業の
起業に努力し、やがて中國共産党のモデルの
農村の姿と持て囃させて、絶頂期で在った
のは2000年ごろまでだった。
貧しい生活から抜け出すために、村の
リーダーは農業を発展させるためとして
発電所を建設し、水路を修復し、効率化。
これで、1972年には穀物収穫量が1ムー(畝)
当たり1トン超、反収で1500㎏を超えた。
一方で、力を入れた副業は、1976年には
副業生産額は5600万円に達し、村人1人
当たりの所得が大幅に上昇した。
1980年、北京政府の農村改革である[契約
責任制]の実施に伴い、集団農地を各世帯に
分配し、各個人の分配地で農業に従事させた。
だが、華西村は人口過多で土地が少ない。
リーダーは、各個人に分けてしまうと、
農業の発展は望めないと考えた。
そこで、村民は20~30人の優秀な農業
従事者に村の農地の土地耕作を契約させ、
彼らを農業への従事に特化させた。
残りの人材で、副業として郷鎮企業の発展に
取組み、製鉄所や紡績工場なども建設。
農業から、工業へとシフト化を進めて、
1994年には、鉄鋼、繊維、化学工業など
45社を保有した[華西集団]が設立された。
これで、党の宣伝部もバックアップし、
一気に名声が全国に広がった。
全国から、観光客が押し寄せ居るようになり
鉄鋼、紡績、観光が、華西の三大柱産業に。
預金口座に2億円の預金がない者はいないと
言われるほどに、華西村は発展。
華西村の各世帯から2億円を拠出して、
600億円で4つ星ホテルまで建設した。
1999年に、華西村は証券取引所への上場し、
華西村企業の総資産は1兆円を超えていた。
だが、2014年以降は環境保護の機運の高まり
と共に、環境への投資が嵩み、主力となって
いた鉄鋼事業の利益が激減し、採算が悪化。
新たに、始めた金融投資やIT、半導体などの
ハイテク産業に経営資本を集中させて失敗。
今では、8000億円近い負債を背負い、華西村
全体が債務超過に陥っているが、共産党
宣伝部は村の実態報道を禁じている。
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