日本の古代を知る確かな記録に魏志倭人伝がある。
当時、倭国内には100を超えるクニが存在し、
相争って乱れたが年若い卑弥呼を立てた後に
収まり、女王の支配する倭として記録された。
魏志倭人伝を編纂した珍寿は、北九州中央部を
支配していた、この女王国は南の狗奴国との
争いに敗れ、卑弥呼は死の道を選ばされた。
狗奴国に占領され、一時は落ち着いた九州も
再び乱れた後に卑弥呼の宗女の登与を立てて
再び安定した後、登与は大和に遷都した。
弥生時代に、瀬戸内海の沿岸地域から、大和
平野の周辺部、更には、日本海側の沿岸部の
越後地方にまで、高地性集落が存在したことが
明らかになり、現在までにおよそ700ヶ所ほどの
集落跡が確認されている。
高地性集落は、海岸部や道路、或いは平野部の
居住地を見渡せる見晴らしの良い尾根筋などに
設けられていた。
だが、発掘結果では襲撃にあったような争いの
痕跡はなく、狼煙後や見張り台らしき建物跡を
検出していることから、[よそ者]の侵入、或いは
稲田やコメを巡る争いを避けるためだったようだ。
瀬戸内海沿岸での高地性集落遺跡は、弥生時代
中期後半の紀元前1世紀から紀元2世紀にかけて
多くが見つかり、越後地域では紀元3世紀
初頭に当たる古墳時代初頭時代の遺跡まで
見つかっている。
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