l 1707年10月28日(宝永4年10月4日)13時45分頃、
東海道沖から南海道沖を震源域として、
推定M8・6~9・3の宝永地震が発生した
南海トラフ全域のプレート間断層が破壊された
日本最大級の超巨大地震だとされる。
宝永地震から300余年、高い確率で発生がされて
いる南海トラフ地震はこの宝永地震のクラスに
なるのではないかと予測する専門家も多い。
南海トラフ沿いで東海地震および東南海地震、
南海地震が連鎖的にほぼ同時に起きた連動型
地震の三連動地震と推定されている。
震源域の長さは700kmにも及ぶとされ、伊勢
神宮の外宮に残された古文書では、揺れた
範囲は日本の国土の東から西まで200里、
およそ790Kmにも及んだと記されている。
宝永年間は、江戸幕府が開かれて100年余り
後の時代で、正確な地震の規模や被害に関する
情報は少なく、開幕後150年ほど後に発生した
安政の大地震の記録から類推した災害記録が
多いと研究者は指摘する。
研究者による詳細な現地調査などから浮かび
上がった宝永地震の規模は、やはり過去最大級の
地震だったとする裏付け調査も発表されている。
震源域は、東は駿河湾(駿河トラフ)まで至らず、
新島・式根島・神津島などが存在する銭洲海嶺まで
達した可能性があるとする。
また、西端は足摺岬には至らず、日向灘には
延びていないとしている。
この地震に因る被害記録では、10分ほども
続く長い揺れで、内陸でも寺社などの大きな
建物に被害が及んでいることから、盆地などの
沖積層が厚い場所では、長周期地震動の発生に
よる被害が大きかったことが推定されている。
奈良盆地では、薬師寺の塔の九輪が折れ、
興福寺や唐招提寺では回廊が壊れるなどの
記録が残る。
また、道後温泉では145日間湯の湧出が止まり、
後の安政南海地震の時より1ヶ月ほど長かった。
高知平野の沈降による浸水範囲も、安政南海
よりも広範囲であったことが確認されている。
揺れは最大震度7で、九州から関東までの広い
範囲で震度5以上と推定され、発生した津波高は
土佐湾で最大25・7 mに達するなど、東海から
九州までの広い範囲に津波被害が発生した。
死者数は、通説では全国で2万人とされているが、
近年、尾張徳川家に残されていた記録には
大阪の死者数は2万1千人に上るとあった。
宝永地震の翌日、10月29日朝6時ごろ富士山麓で
M6・5程度の地震が発生している。
49日後には、宝永の噴火が始まり、主として
東側に降灰被害が多く発生し、江戸の町にも
灰が降ったことが語り継がれていた。
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